別府晋介…1847〜1877・薩摩藩士。西郷隆盛(1827〜1877)を介錯をした人物。 1877年、明治10年・西郷隆盛率いる西郷軍…鹿児島・城山に立て籠もった時には、当初2万人を超えてた人数は300人余りを残すのみになっていました。そして9月24日午前4時、政府軍は6万人の兵で総攻撃を開始。西郷軍は何倍もの政府軍に対して最後の突撃を敢行しました。そして2発の銃弾が西郷の太股を貫き…同日、午後7時…西郷は別府に介錯を頼んだのでした。膝を揃え、襟を正し東を遥拝した(遥か彼方を望んで拝むこと)西郷に別府は涙を流しながら刀を振り降ろしたのです。 もともと、この戦いは西郷が望んだものではありませんでした。西郷達がつくりだした新政府。考えの違いから、西郷は辞任し、鹿児島へ帰る事に。しかし、東京に残っていた薩摩の士族達も西郷を慕って600人余りの人数までもが鹿児島へ。そこで西郷は私学校を設立しました。彼の人柄の良さから1万5千人の士族が集いました。そして…鹿児島県の行政を私学校の幹部達が行う様になり…政府から睨まれる様になり…政府が密偵を鹿児島に潜入させている事が発覚したのです。政府の目的は西郷の暗殺。西郷自身は、自分の命など…と笑っていましたが、私学校の生徒達は、武器弾薬のある施設を襲撃してしまったのです。これを知った時西郷は、『弾薬などに何の用があるのか』と激怒しました。平和に暮らすのに爆薬など必要の無い物だったからです。しかし…もう争いなど望んでいなかった西郷ですが、幹部達の意見により政府と戦う事を決意したのです。決意というより、幹部に委ねたのだと思います。そして最後の戦いが始まったのです。 別府さんより西郷さんの話になってしまいました(笑)西郷さんって不思議なんですよ。肖像画も本人ではないらしいし、名前もコロコロ変えていたり。命を顧みず行動してるわりに慎重派です。武士として生き、刀を収め平和を望み、政治に努めようとたが邪魔され、また最期は本人が望まなくとも武士の姿だった西郷さん。自分的に西郷さんがいなくなった事で武士の時代が終わったという区切りになるので、かなり複雑な気持ちになります。これで良かったのか…悪かったのか。 さて明日は『ほ』です☆